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(一)世界大遺跡玉山霊域

  

 竹駒町の玉山金山遺跡への登り口に、「世界大遺跡玉山霊域」と記された大きな塔が建っています。
 しかし、この塔は再建した塔で、最初は昭和七年(一九三二)にJR大船渡線(旧国鉄大船渡線)の竹駒駅の開設と産金地玉山のPRを目的として建てられた塔でした。
 ところが太平洋戦争が始まり、この塔も空爆の目標になるのではと危惧され、惜しくも昭和十九年(一九四四)撤去されたのです。
 平成四年、コロンブスの乗ったサンタ・マリア号が復元されて、スペインのバルセロナ港から大船渡港に入港するのを記念して、再び竹駒町の有志によって、以前のものより四メートルも高い十五メートルの塔が建てられました。
 塔のかたわらの、「玉山金山由来」には、主に次のことがらが記されています。
・天平年間に僧行基によって発見されたこと。
・奈良東大寺大仏の造立や平泉の殿堂造営にも黄金を献上したこと。
・平重盛が宋国の育王山に黄金を献上したこと。

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(二)正覚寺

 竹駒町字仲の沢地内にある浄土宗のお寺で、山号を「雪沢(せったく)山」と称し、本尊は阿弥陀如来座像です。
 浄土寺(高田町)の支院として、雪沢金山隆盛の頃、矢作村雪沢地内に「正公院」として創建されました。
 その後金山の衰えにより、浄土寺とともに竹駒村に移り、やがて浄土寺は高田村に移りますが、その時当寺へ「雪沢山」の山号を残したと伝えられ、更に五世卯公和尚のときには、寺名も「正公院」から「正覚寺」と改められたとされています。
 元禄年中(一六八八〜七〇三)の絵図には、竹駒村軍見洞地内に正覚寺が描かれていますが、その後正徳四年(一七一四)に仲の沢折戸地内に再び移転するも、狭隘のため、享保二十年(一七三五)浄土寺の遊教上人により現在地に寺が移され、中興開山となりました。

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(三)荘厳寺と荘厳寺跡

  

 竹駒町字仲の沢地内にある浄土宗のお寺で、山号を「功徳(くどく)清浄(せいじょう)院」と称し、本尊は阿弥陀如来座像です。
 慶長元年(一五九六)、福島県磐城郡 の奥州大本山専称寺の良住一白上人が当地方に来て、玉山金 山の地に、当時御金山下代を勤めていた松坂徳右衛門定久と 力を合わせ一宇を創立し、「功徳山荘厳寺」と名付けました。
 その後金山はしだいに衰え、元禄年中に現在地に移されたと伝えられています。
 現在玉山金山遺跡内には、「荘厳寺跡」として標柱が建てられ、付近には古い墓も残されていて、往時が偲ばれます。
 なお、開山に力をそそいだ松坂家の墓所は、荘厳寺の本堂の真後ろに設けられています。

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(四)延命寺

 竹駒町字上細根地内にある曹洞宗のお寺で、山号を「竹駒(ちっく)山」と称し、本尊は地蔵菩薩座像です。
 永禄二年(一五五九)、開基は荷替屋敷阿部与左衛門照供で、自ら土地を寄進し、また政宗の家臣伊達安芸守の命により、当地方に布教活動にやってきた丹嶺守桂(しゅけい)大和尚が開祖となって創建されたお寺です。
 当寺にはほかに相川地内に滝山不動尊を安座しているお堂があります。
 本尊の不動尊像はいい伝えによると、運慶の作とも伝えられ、古来より「火の仏」として信仰されています。
 細根沢(吉が沢)地区は、金鉱脈が細く延びていて、古くから砂金掘りが盛んに行なわれ、今でもその遺構が随所に見られます

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(五)竹駒神社

 神社は、天平年間(七二九〜四九)、僧行基が玉山金山を発見したことから、山城国(京都府)の伏見大社より金山の守護神として分霊されました。
 祭神は倉稲魂命(うがみのたまみこと)豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)です。
 一説には天仁元年(一一〇八)藤原清衡が中尊寺金色堂の造営のとき、玉山の地に竹駒神社並びに玉山神社を奉斎したとの伝えもあります。
 延宝年間(一六七三〜八一)の頃より金山が衰退したため、天明七年(一七八七)玉山の明神平より現在地(童子長 根)に遷座されました。
 そのため古老たちの中には「お明神様」と呼ぶ人たちもいたといいます。
 文政六年(一八二三)には、「正一位稲荷大明神」の御神階が授与されています。
 慶応二年(一八六六)拝殿を再建し、その後明治には村社となり今日なお多くの崇敬者の信仰の社になっています。

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(六)松坂十兵衛定成の開墾地

 玉山金山遺跡に向う途中に「新田」という所があります。
 ここは、御金山(おかねやま)下代(げだい)松坂十兵衛定成が、金山の鉱夫たちを使って開墾した所です。
 十兵衛は玉山金山が衰退に向った寛文の頃、鉱夫たちの暮しを確保したいという願いから、玉山に近いこの地を選んで開墾をはじめました。
 開墾は寛文三年(一六六三)から六年まで三ヶ年かかり、水田約五.五ヘクタール、畑約二.三ヘクタールを開き、鉱夫たちにこの田畑を配分しました。
 その後人々はその功績を讃え、「松坂十兵衛定成開墾地」と刻んだ石碑を道端に建てました。

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(七)松坂堰と取水口

 寛文年間(一六六一〜七二)に御金山下代松坂十兵衛定成が、南平・ 中平・北平の地に玉山の鉱夫たちを督励し、田畑の開墾を行ないました。
 その地に用水を引いた取水口は壺の沢川の上流、玉山金山入口付近にあります。
 用水堰は松坂定成の功績を讃えて、「松坂堰」と呼んでいます。
 今日でもその堰口から流れ出る水が、約五.五ヘクタールの棚田を潤しています。
 この堰は「行灯(あんどん)測量」によって造られたといわれ、暗夜に堤灯を灯して、水路の高低を測るという方法でした。
 幹線水路約一キロメートルの水路は難工事の末やっと完成したといわれています。

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(八)大天婆神社(大天婆様)

 神社は、玉山金山遺跡の入口に祀られ、勧請は天正年間(一五七三〜九二)の頃で、祭神は倭姫命(やまとひめのみこと)です。
 また別に鍛冶神を祀ったとも伝えられています。
 鉱山では鉱石を採掘するために色々な道具が必要で、それを作ったり、修理したりするのが鍛冶師です。
 その鍛冶師が信奉していた神とも伝えられています。
 地方によっては「テンバ神」は、「大天婆神」、「大天姥神」、「大天馬神」、「大てんば」「大天間」等と色々の宛字が用いられています。

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(九)検問所跡

 金山の入口に検問所跡があります。
 検問所というのは、玉山金山が盛んなころ、多くの人々が出入りするので「徳川山例五十三ヵ条」(鉱山の法律)という掟を基本に、取調べをした所です。
 ただ、この掟書には「主殺し」「親殺し」以外は、申し開きによっては金山に出入りすることを許すという産金奨励の意味もあったようです。
 しかし一方では、切支丹(キリスト教)信者の取調べも厳重に行われました。

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(十)我慢太郎マサカリ岩

 元、大天婆様を祀ってあった道路の中央に大石があり、この石の表面に碁盤の目のように筋がみえます。
 それでこの石を我慢太郎の「爪切り岩」と呼んでいました。
 そこからおおよそ五十メートルほど登った所に山神の碑があり、その下の 方に「マサカリ岩」といって、石の面に三、四本のマサカリの刃で切りつけたような跡があったそうです。
 ところが昭和十四年に玉山道路を改修した時、惜しくも砕かれ、今ではその姿を見ることができません。

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(十一)精錬所跡(選鉱場跡)

 砂金や山金(鉱石)を採取して自然金にするまでの作業所があった所といわれています。
 押穿(おしぼり)は堰の中に溜まった砂金含みの土砂から採取する工程をいいます。
 堰に溜った土砂は「ネコダ」の上に残るので、これを「ゆり板」に移して水の中でゆすると、砂金と砂鉄に分けられ、容易に砂金を採取できます。
 一方、山金は石はたきによって鉱石を砕いて、搗臼で粉成して「ネコダ」に流し、さらに「ゆり板」や「ゆり鉢」を用いて砂金の採取をします。
 このような一 連の作業をする所です。

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(十二)博打岩

 本道路から枝分かれして、天明の飢餓の際にワラビの根を掘ったといわれるワラビ山に入るその入口付近に「博打岩」があります。
 博打岩は、花崗岩の台石の上にやや扁平な花崗岩の巨石が屋根のように覆いかぶさって、その下に大きな空洞をつくっています。
 これが博打岩です。
 玉山金山で働く掘子たちの中には、た まの休みにこの穴に潜りこんでご法度の博打を楽しんだと伝えられています。

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(十三)御金山下代松坂家屋敷跡

 旧玉山高原センターの上手に松坂家屋敷跡があります。
 松坂家は藩政時代に御金山下代を世襲的に勤めた家柄でした。
 同家は初代松坂徳右衛門定久に始まりますが、遠祖は定澄といい、文治元年(一一八五)源頼朝から今日の三重県松阪市に領地四千町歩を賜わったので、その地名をとって「松坂」を名乗ったといわれています。
 定澄から十七代目の盛定の一子が定久です。
 定久は永禄七年(一五六四)山城国(今の京都府南部)で生れ、 長じて天正十六年(一五八八)三月に、羽州(山形県・秋田県)の延沢・院内金山で金山経営を学びました。
 その後文禄二年(一五九三)に気仙郡竹駒村に来て、玉山金山で公儀物書役を勤めました。
 やがて慶長三年(一五九八)には伊達政宗に命じられて御金山下代になり、以来明治に至るまでのおよそ二百七十年間にわたって松坂家は代々その職を継いできた名家で、その屋敷跡 が今でも残っています。

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(十四)不動院跡

 不動院は、天正年間(一五七三〜九二)に大和房昌永によって開山され、「金玉不動院」と号し、寛文年間までは玉山に住んでいて、その地が不動院跡として残っています。
 享保の頃に現在地に居を移し、竹駒神社・玉山神社・不動尊を奉 斎しながら加持祈祷を行っていました。
 八世光政は宝暦九年(一七五九)に玉山神社を再建して翌年石碑を建立。
 九世光応は天明七年(一七八七)に竹駒神社を現在地に遷座し、今日に及んでいます。

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(十五)霊泉玉の湯

 「玉の湯温泉」は、玉山金山遺跡の中心部から氷上林道と分れ、玉山神社に向う登り口付近に開かれた湯治場です。
 約百四十年ほど前に御金山下代松坂慶蔵によって「千人坑」から湧き出た鉱水を引いて開かれたこの温泉は、以後今日まで 営々として玉の湯温泉として湯治客に親しまれてきました。
 その薬効は昔から皮膚病に良いと言われています。
 平成十一年に「霊泉玉の湯」が新館を建設、同十三年にはその付帯施設として宿泊棟も設けられ、市内外から連日多くの湯治客で賑わっています。

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(十六)千人坑跡

 この坑道は玉山金山最盛期の主坑といわれ、玉山神社の直下を通って縦横に掘られていると伝えられています。
 坑口近くには二十平方メートル程の大広間が開けて、竪穴からは地下水の流れる音も聞えるとも言われています。
 玉山金山が隆盛を誇っていたころ、千人坑の奥に小牛ほどもある大金塊が出たと…一山をあげて大騒ぎになっ たといわれます。
 その「金のベゴッコ」を引き出すため千人もの鉱夫が坑道に入り、綱をつけて引き出しにかかったが動かず、最後には正直な飯炊き女のオソトキまで呼ばれこれに加わったといいます。
 ところがオソトキが綱に手をかけると外でオソトキを呼ぶ声がします。
 小走りに坑口に出てみるとそこには誰もいなかったというのです。
 その時、坑道がものすごい音を立ててつぶれ、千人もの人々(・・・・・・)が生き埋めになったという…「オソトキ」伝説を伝えています。

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(十七)和右衛門坑跡

  

 千人坑跡をさらに北に登ると、玉山神社の下方に「和右衛門坑跡」があります。
 この坑道は、文政四年(一八二一)、金山師瀬戸(勢登)和右衛門が開坑したところから、この名が付けられています。
 瀬戸和右衛門は、仙台領黒川郡吉岡天王寺家中の人で、当時、南部領橋野金山で金の採掘を行なっていました。
 ところが同所は南部藩の御直行になったので、立退きを余儀なくされました。
 和右衛門は召抱えていた鉱夫共を連れ、気仙郡の玉山に来て、慶長年間(一五九六〜六一五)に開坑された坑道を再び開坑し、隆盛を迎えました。
 この坑を昭和年代に探索し、実測した図面(図面参照)が残されています。
 これをみるといかに金鉱脈を求めて複雑に掘り進められたかを窺い知ることができます。

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(十八)玉山神社

 天平年間(七二九〜四九)、僧行基が奈良の大仏造立のため諸国に黄金を探し求めてこの地に来た時、夢のお告げに弁財天(市杵島姫命(いちきしまひめのみこと))が現われて、金山を発見することができたと伝えられています。
 その弁財天を分霊し、金山守護神として玉山の地に「玉山神社(玉山御前宮)」として勧請されました。
 また天仁元年(一一〇八)に、藤原清衡によって奉斎したとも伝えられています。
 天正十年(一五八二)豊臣秀吉の代に、金山奉行大橋八蔵・西村左馬之助・鯰江権右衛門がこの地方に来た時に、社殿を建替えましたが野火のために焼失しました。
 その後文禄四年(一五九五)仙台藩主伊達政宗が再建、寛文十年(一六七〇)には伊達綱村によって山神社とともに建替されました。
 なお現在の祠は石造りで、大正年間に建てられました。
 傍らには、不動院八世光政が碑文を刻んだ「玉山碑」もあります。

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(十九)尺八堀坑跡

 この坑道跡は、玉山神社の東方に位置し、坑道は竪坑状になっていて、現在は安全確保の面から坑道の入口が閉鎖されています。
 この坑道は、他の坑道と異なり、竪坑が尺八の穴のようになっており、このようなところから尺八堀坑と名付けられたと伝えられています。

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(二十)二百五十切

 玉山神社の裏側に二百五十切地名があります。
 ここは、ある年に二百五十切もの砂金を洗い出し採取したと伝えられ、その名がつけられたといわれています。
 砂金を洗った水は氷上山の裏側から水路を引き、その水を用いたという伝えがあります。 それとは別に、ここに坑道跡が二〜三ヶ所現存しており、坑道堀りが実際に行われていました。

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(二十一)壺(坪)の沢川周辺

 氷上山の北西に源をもつ壺の沢川は、途中小さな沢水を合流しながら、玉の湯温泉付近で巨石の間を飛沫を飛ばしながら急流となって下り、女岩・男岩の狭窄部では一筋の小滝を見せて、やがて壺の沢の集落を縫いながら、気仙川(大川)に合流しています。
 壺の沢の集落の付近には、長い年月にわたり玉山の金鉱石の露頭が風化して、流出したものが下流域に堆積しました。
 そのため古い時代から砂金取りや、御本判持ちの掘子たちが多く住んでいた所です。

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(二十二)無極寺

 竹駒町字下壺地内にある曹洞宗のお寺で、山号を「壺中(こちゅう)山」と称し、本尊は虚空菩薩座像です。
 この寺は、弘安年間(一二七八〜八八)、壺館主佐々木安芸守(あきのたみ)胤綱(たねつな)が現在地に寺地を寄進し、その後永正元年(一五〇四)、石鳥谷村の大興寺十世如幻充察によって開基されました。
 寺の付近には古くから砂金掘りが行なわれた壺の沢川が流れ、その上流には「玉山金山遺跡」があります。

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(二十三)浄土の渡り(正覚寺跡・浄土寺跡)

 元禄十二年(一六九九)の竹駒村絵図を基に菅野壮徳氏が描いた絵図に、「浄土の渡り・正覚寺跡」があります。
 浄土寺、正覚寺両寺は、もと矢作村の雪沢にありましたが、雪沢金山が衰退したため、竹駒村の軍見洞地内に移転しました。
 ところが、ここは再三の洪水に見舞われたため、浄土寺は高田村の洞の沢へ、正覚寺は同村仲の沢へと夫々移転したのでした。
 古老の話によると、浄土寺が雪沢から気仙川(大川)を渡って、この地に移って来たことから「浄土の渡り」という呼称が付けられたのではということです。

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(二十四)前町の跡と十日市場跡

 昔、玉山金山が全盛の頃、各地から商人達がやって来て町場の様相を見せていました。
 当時、竹駒村に前町があっていろいろな物の交易が盛んでした。
 享保年中 (一七一六〜三五)までは農民も住んでいましたが、その後再三の洪水で家が流さ れたことから、人々は諸方に離散移転したため、跡地は畑地などになりました。
 察するに「前町」は、玉山の市街に対しての呼び名ではなかろうかといわれています。   また、「十日市場」と呼ばれたのは、市日が十、二十、三十の月三回の三斎市であったことからの地名と考えられます。

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